2012年12月24日月曜日

踊る阿呆に

最近は書こうかなと思ってもなかなか書き出せずにいる。書いた内容で軋轢を増やさないか、人間性を疑われないか、など思い出すと書く意欲と勇気が湧いてこない。無難なことを書けばいいのかもしれないけど、それなら別に他人に見せる必要もないわけだし、第一、無難って何かね。人様に何かを提示・披露することは、そもそもノーリスクではなかったのか。というここまでの文章は割と無難な気がする。

SNSというのを教えてもらったのは大学生のときで、当時はmixiとGREEに参加していた。色んな知り合いが色んなことを書いていて、自分自身くだらない内容をネタ的に書くのは面白かったけど、唐突に止めてしまった。理由は何だったか。今思うと、発作のようなものだったかもしれない。

Facebookも参加するつもりはなかったのだけど、使いたいアプリがFacebookでしか使えなかったので、仕方なく始めてみた。友達にも知らせずにひっそりやろうかと当初は考えていたのだけど、一人ではいられないという人間の根源的欲求により、気付いたら友達としてつながっている人数は2桁になっていた。知っている人に手当たり次第友達の申請をしている人々もいるんだろうけど、面倒が増えそうなので私は積極的には申請していない。

面倒が増えそうと言っても、揉め事が持ち込まれるとかトラブルになるとかいった意味ではなく、私が勝手に精神的な負担を感じてしまうというだけの話である。話題や展開によってはげんなりしてしまうことがあるのだ。

直接対面してやりとりする分には気にならないことが多い。 それは、リアルタイムの会話では細かいところまで配慮しきれないし、話すまで無自覚だったものが言葉にしたら結構まずかった、というのはままあることだと思っているからだろう。だが、ある程度まとまった意見をネットに書き込むという場合には、考える余裕があるし、発信するかどうかを選択する自由もある。そのような条件下で書かれた文章が、リアルタイムの会話と何ら変わらないと、何故これをネット上で書く必要があったのかと思ってしまうのである。

例えば、「公務員の給料は国民の税金から払われているのだから、無駄にするな」「教師という聖職者なのに、破廉恥な…」というような、『…は〜するべき』を前提とする意見がある。私はこういう意見の出し方に違和感を覚える。この話は裏返すと、(多くの場合)自分はそうではないので義務を負わないと言っているのに等しい。「自分はサラリーマンで給料は国民の税金ではないから、怠けていてもよい。強制わいせつ罪で捕まっても仕方ない」のかしら?

一人の人間としてどうなのかという問題でしかないのに、声高にこのような言い回しをする人は、自分に自信がなく、世間に対して後ろめたい気持ちがどこかにあるのだろう。誰かが自分より劣っていることをアピールすることでしか、自分の存在意義を確認できないのだと思ってしまう。

彼らはまた、他人の過失や責任を問う割には、自分自身の非は認めないことが多い。どうするのかと言えば、他人や社会にそれを転嫁するのである。 自らが小器であることを白日のもとに晒して何が嬉しいのかわからないが、本人達は無自覚なのであろう。

仮に無神経でも無自覚でも、言わなければわからないのだが、気軽に言葉を発信できてしまうというのは恐い。そうか、最近それが恐かったのかもしれない。