2013年7月12日金曜日

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決して忙しすぎてネットなどしている暇がないわけではない。が、やはり何らかの意見なり感想なりをまとめようとすると、途端に指が動かなくなる。こういうとき、“腰が重い”というのは適当な表現なのだろうか。「いや〜、腰が重くってブログの更新ができないんですよ」って、変な感じ。情報端末を持ち歩くこんな時代にふさわしい表現とは。

割と前になるが、村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んだ。本当は読むつもりなどなかった。私は素直ではないので、メディアで頻繁に取り上げているものには手を出したくなくなるのだ。みんなミーハーだなぁ、と思っていたら、お義母さんが読みたかったそうで、akiさんが買ってきた。「先に読んでもいいって」と言われ、結果的に私が最初に読んでしまった。傍から見たら、私がミーハーにしか見えないよね。

私は文学の解釈というものが苦手で、小説を読んでも基本的には娯楽として消費しているだけである。文藝春秋6月号で、石原千秋が夏目漱石の『こころ』と村上春樹の『ノルウェイの森』の共通点は何かについて書いていて、その『こころ』の解釈に新鮮な驚きを覚えた。この記事を読んだ直後は、小説の解釈って面白そうだなと思ったが、あまり深入りすると何のため、誰のための解釈なのかという問題になりそうな気がして、結局こういうのは一部の頭のよい人が生活の片手間に知的な遊びとしてやるぐらいがベストではないだろうか、という結論に至る。そして、私の小説を読むスタンスも変わらないまま。

村上春樹の作品でも、「共感できる」「わかる」と言う人は少なくないが、彼の作品に限らずほぼすべての小説について、私は「わかる」と言えない。あそこに書いてあった文の意味がわからない、主人公の気持ちは何でこうなるかなー、など自分の頭脳と感性では把握しきれないことがあると、例えある部分の文章が自分が考えたことと何らかの一致を見たとしても、それで理解したとは言い難い気がしてしまうのである。結果が15であっても、そこに至る式は3+4+8かもしれないし、あるいは私にわかっているのは3+4+△+○ということだけなのかもしれない。

私がやたらと“わかる”を神聖視しているだけで、別にそんなに深い意味はなくていいのかもしれない。少しでも似たようなことを考えたことがあると感じたなら、「わかる」と言ってしまっても問題はないのだろう。そもそもこんな話で嘘をついたところで、誰も迷惑を被らないわけだし。しかし次には、そんな表層的な言葉のやりとりで虚しくないか?、と思ってしまう。まあ、私も物事の本質を考えることは嫌いではないが、本質に迫れているかとは別問題であって、実際に私と話すと虚しい思いを抱く人が大勢だったりして。

“成長する”も自分に対して使うには、抵抗がある。多くの場合、「私、成長したわー」というよりは「成長している気がしない」という文脈で使われるように思うが。前者も皆無ではない。個人的には、神経がまともなら成長なんてそう肯定的に捉えられないものだと考えている。例えば、全然ギターが弾けなかった人がコードを覚えてポロンポロン鳴らせるようになったら、それは成長したと言えるかもしれない。が、それはゼロからの進歩だから大きく感じられるのである。0→1と99→100では感じられる進歩の度合いは違うに決まっている。

最近は何でも前向きに言うのが流行りなのか、「今まで全然そんなこと考えたことなかったんですけど、今回のことで学びました~」と宣う人をよく見る。そういうのを見るたびに、今まで何も考えてなさすぎるだろうと感じることがほとんどだ。今知ってさえいれば(それも怪しいが)、過去知らなかったことは恥でも何でもない、という感覚はちょっと理解し難い。「昔は万引きなんかよくやったもんですけど、今は落ち着いて結婚して子供もいます~」と平気で公表できるメンタリティと大して変わらない気がしてしまう。個人的には。

つまり、成長する=過去を恥じるということなんだろうと思う。だから私にとって、自分が成長したことを明るく報告する機会なんてないのである。あるいは過去を恥じずに言えるときは、何か新しいことに挑戦したときであろう。しかし、「成長した」と言いたいがために何かを始めるもんでもないと思う。それでも何でも成長したい人は、何のための成長なのかをよく考えた方がいいと思う。そもそも成長はどんな場面でも例外なく善なのか。

ここ数日間暑いせいか、昨日財布にお金が入っていなかったからATMでおろさなきゃと言っていたakiさんは、今日財布ごと忘れて行っちゃうし、coopの宅配の人は1階下の家の前に荷物を置いて行っちゃうし。私はこんな記事書いてるし。ま、それは毎度のことだけど。札幌でそうなんだから、連日39℃超えしている地域とかどうなっちゃうんでしょうか。